韓国略史72
「韓国5千年の歴史」とよく言われます。ここでは韓国の檀君以来の歴史を年代に沿って72編に構成して連載いたします。韓国語学習の上で歴史を知ることが、ある時には助けなり、またある時には知識の幅を広げるきっかけになる場合が多くあります。このイージー文庫で紹介します『韓国略史72』は韓国語学習者の皆さんに韓国語学習と併せて、韓国5千年の歴史を学んで頂く目的で掲載致します。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『韓国史略72』をお楽しみください。
 11.百済滅亡
滅亡の足音

羅済同盟により百済と新羅は互いに力を合わせ、ある時は共に国防にあたり、またこの時期になると国力が弱まった高句麗を活発に攻撃するなどした。ところが百済が漢江流域の領土を確保すると、新羅の真興(チヌング)王は120年もの間続いた同盟を破って百済を攻撃し漢江流域を占領した。これに対して百済の聖(ソング)王は554年、軍を整備して新羅を攻撃したが既に大勢は新羅に傾いており、管山城(現在の忠清北道玉川)で大敗を喫し自身も戦死してしまう。

これにより百済は危機に陥り、これを見た高句麗が百済の熊川城を攻撃する。しかし、この攻撃は聖王の後を継いだ威徳(ウィドク)王が無事に防ぎきった。威徳王は聖王の戦死を雪辱と勢力の回復を図るため新羅を度々攻撃した。また、中国と積極的に外交交渉を行い中国の多くの国々に使臣を送った。

威徳王が亡くなったその後は、恵(へ)王と法(ボッブ)王が即位するが、際立った業績もないまま2年で次々とこの世を去り武(ム)王が王位に上がった。

武王は新羅をしきりに攻撃しながら同時に隋に朝貢し、高句麗を討伐する様にしきりに出陣を要請した。しかし隋はこの時百済の要請には応ぜず、代わりに韓半島の三国が争わないように命じた。618年に隋が唐に変わると百済を先頭に韓半島の三国は互いに使臣を送り、624年唐の高祖は武王を“帯方郡百済王”に封じた。武王は軍を整備し新羅に奪われた領土を取り戻そうとしたが唐の中止命令により果たすことが出来なかった。

この様に武王は国の勢力を回復させるために中国(隋・唐)に対し懸命な外交努力を行った。また、新羅の攻撃に備え高句麗と同盟を結んだりもした。しかし、晩年は奢侈と享楽に溺れ百済滅亡の原因となった。


悲運の義慈王

641年武王が亡くなり義慈(ウィジャ)王が即位した。義慈王は英邁で父母に対しても孝道を尽くし、兄弟に対する思いやりも深く、多くの人々から海東曾子と呼ばれた。
義慈王は王位に就いた翌年には新羅を攻め40余城を陥落させ、その後、当項城・大耶城・腰車城などを攻撃し新羅を苦境に陥らせるなど国威の発揚に力を注いだ。

連勝を続けた義慈王は次第に傲慢になり贅沢を好み享楽にふける様になって行く。朝廷では王の周辺は忠臣よりも奸臣たちにより固められただけでなく、忠臣が真心をこめて王に諫言を呈してもかえって王の恨みを買い多くの忠臣が朝廷を去って行った。
佐平の役職にいた成忠(ソングチュング)は泣きながら義慈王を諌めようとした。

「王様!今は国がどうなるかわからないとても厳しい状況にあるのに、その国の王が酒池肉林に溺れているのは正しいことではありません。今庶民は飢えに耐え粗末な服を着、その不満の声は天を突く勢いです。どうか国と庶民の為に何をすべきかお考え下さい。」
「何!何だと?お前が私にああしろこうしろと命令するのか?」
「王様に指図をしようと言うのではありません。早くから海東曾子と称賛された王様が、国がどうなっても構わないという態度でいられるのは痛恨の極みです。どうか国のことをお考えください。」
「ええい、お前の顔なぞ見たくもない。下がれ!」
成忠が下がると奸臣たちや後宮の女官たちは、先を争ってつぎつぎに成忠の陰口を言い始めた。

「王様、成忠の話は事実ではありません。御心配には及びません。」
「成忠はうそを言って王様のお心を傷つけました。彼に罰を与えねばなりません。」
奸臣たちや後宮の女官たちは様々な言葉で成忠を非難し、また王は彼らの言葉を鵜呑みにして成忠を投獄してしまった。成忠は断食をしながらもいつ来るかもしれない他国からの攻撃に備える方法を血書に残して死んでしまう。

『…万一他国が攻めて来たら水軍は伎伐浦(ギバルポ=錦江の入口)の丘を越えさせてはならず、陸路軍は炭(タンヒョン=忠清南道、錦山と完州の境界の丘)を越えさせてはならない。』

しかし、成忠の遺書は途中で奸臣たちの手により義慈王へ伝えられることはなかった。
その間に新羅では真徳(チンドク)女王が亡くなり、新羅で最初の真骨出身(新羅の身分制度は骨品制度と言い、真骨は聖骨に次ぐ身分ではあるが、それ以前の王はすべて聖骨出身であった)である金春秋(キムチュンジュ)が大臣たちの推薦で太宗武烈(テジョングムヨル)王となった。そして、金春秋が実際に唐へ行って積み上げた中国との外交成果が実を結び始める。

この様な周辺の状況も知らないまま義慈王は更に放蕩生活に溺れて行く。百済の状況を把握した新羅の太宗武烈王は唐に援兵を請い660年羅唐連合軍が形成され百済攻撃を始める。


百済最後の将軍−階伯

羅唐連合軍が堰を切ったように押し寄せてくると、ようやく自らの過ちに気がついた義慈王はそこで初めて今までの自分の愚かを悔やみ、兵を備え敵の攻撃に対抗しようとしたが、既に綱紀が緩んでいる上に18万の羅唐連合の攻撃を前にして充分な対抗が出来る状況でなかった。

唐の蘇定方が率いた13万の大軍は既に伎伐浦に到着し、金庚信(キムユシン)が直接率いた5万の新羅軍も炭を過ぎ山伐(ファンサンボル)に陣を構えた。百済の最後の名将である階伯(ケェベク)は黄山伐の戦いを前に家族たちと会い合意の上で家族を殺して戦に臨んだ。
5万の新羅軍を前にして階伯の旗下には僅か5000の兵が全てであった。しかし彼らは死を覚悟して新羅軍に対抗したため反対に新羅の士気は徐々に落ち始める。
この時、新羅軍にいた若い兵士で花朗の官昌(クァンチャング)が2度にわたり一人で百済軍の陣営に突進し結局命を落とした。これをきっかけに新羅軍の士気が再び上がり、百済軍は全員が戦死する。

一方、義慈王は熊津城に避難したが泗城が陥落したことを知り降伏した。これにより百済は31代678年の歴史に幕を下ろす。
唐は義慈王を始め、太子や大臣たち、更に多くの百済人たちを唐へ連れて行った。また、熊津に都督府をおいて百済の地を支配した。
この時百済の遺民の中には新たの地を求めて日本に渡るものや、百済の再興を目指すもの少なくなかった。しかし、再興運動は内部の分裂などにより大きな成果を得ることなく終わった。

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