韓国略史72
「韓国5千年の歴史」とよく言われます。ここでは韓国の檀君以来の歴史を年代に沿って72編に構成して連載いたします。韓国語学習の上で歴史を知ることが、ある時には助けなり、またある時には知識の幅を広げるきっかけになる場合が多くあります。このイージー文庫で紹介します『韓国略史72』は韓国語学習者の皆さんに韓国語学習と併せて、韓国5千年の歴史を学んで頂く目的で掲載致します。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『韓国史略72』をお楽しみください。
 29.事件の連続
戊午士禍(1498年)から乙巳士禍(1545年)まで

朝鮮第7代王・世祖(セジョ)が王の権力を強化しようと中央集権政策を進めると、王が行わなければならない仕事は王一人では処理出来ない程に増えた。すると世祖は、それらの仕事を韓明(ハンミョンフェ)・申叔舟(シンスックジュ)・具致ェ(クチグァン)等に任せ、自らは承政院(スンジョングウォン)に常勤してその承認処理に行う様になった。元々朝鮮では大臣たちが王に代わって吏曹・戸曹・禮曹・兵曹・刑曹・工曹の6つに分けて業務及び国政全般を担当する院相制を執っており、その各々の長官を院相と呼んだ。

ところが、こうして世祖の側近・功臣と呼ばれる者達が国政を担当する様になると、多くの権力が韓明たち勲旧派(フングパ)が掌握することとなり、それに相対して院相と呼ばれた大臣の力は弱まる。勲旧派たちは世祖を助け多くの業績を残すが、その為に受ける反発も小さくなかった。
世祖の後を継いだ世祖の孫の成宗(ソングジョング=在位期間1469〜1494年)が即位すると朝鮮初期の文化が大きく花を咲かせることになる。成宗は学問を好み四芸書画(琴・碁・書・画)に精通し文武両道の賢明な王であった。また外交政策においても辺境の安全を図るなどの功績を残すが、ある事から自身の王妃である尹氏を廃位させ賜死させてしまう。やがてこの事が後に燕山君(ヨンサングン)による士禍の原因となるのであった。
成宗の子の燕山君(在位期間1494〜1506年)は朝鮮10代王に即位すると国防に力を注ぐなど国を治める為に努力を怠らなかった。しかし、王となって幾らも経たない内に政事に関心を示さなくなり放り出してしまう。
そうした中、勲旧派と新たに登場した士林派(サリムパ)が対立する事件が起きる。士林派は成宗時代の官吏である金宗直(キムジョングジク)が代表的中心人物であるが、金宗直は成宗の信任を受けて自身の弟子たちを三司(司諫院・司憲府・弘文館)に登用させて勢力を拡大した。勢力が大きくなると士林派は勲旧派を「欲深い小輩」と称して無視し、勲旧派は士林派を「野生貴族」と言って互いに罵り合う様になった。

1498年、成宗時代の歴史書である《成宗実録》の編纂がはじまるが、実録の史草(史記の初稿)を金宗直の弟子である金孫(キムイルソン)が書くこととなった。金孫が史草に金宗直の《弔義帝文=チュングウィチェムン=首陽大君(世祖)の王位簒奪を非難する内容》を載せると、堂上官である李克(イグックトン)は平素から金孫を快く思っておらず《弔義帝文》の内容に因縁を付けて柳子光(ユジャグァング)と共に燕山君をそそのかして戊午士禍(ムオサファ)を引き起こす。
燕山君は直接、金孫等を尋問し全ての罪が既に死んでいる金宗直にあると結論付け剖棺斬屍(罪人の棺を暴き死体の首を掻く極刑)命じる。金孫は徒党を組んで王を誣告(ぶこく)して陥れたとして死罪となり、その他にも多くの士林派の人々が濡れ衣により流罪を受けたり官職を罷免されたりした。士禍の発端となった李克も問題となった史草を知りながらそのまま放置していたとされ罷免される。その結果、朝廷では大部分の士林派が排除され柳子光は更に高い権勢を誇ることとなった。この事件が朝鮮の四大士禍の中で最初に起きた士禍であり、史草の問題が発端となったことから史禍とも呼ばれている。


甲子士禍(1504年)

戊午士禍で多くの役人たちが死ぬと燕山君の横暴は益々増長し、周囲には奸臣だけが残る様になっていった。1504年、任士洪(イムサホング)が燕山君の義理の兄弟である慎守勤(シンスグン)と手を組んで忠臣たちを排除して、王に取り入ろうと燕山君の生母である尹(ユン)氏の廃位問題で燕山君をけし掛けた。父・成宗の妃であった燕山君の母の尹氏は嫉妬深く王妃の名を汚すような行動が多いとの理由で1479年(成宗10)廃妃され1480年賜死された。この事件は尹氏自身の至らなさもあったが、成宗の寵愛を受けた厳叔儀(ウムスギ)・鄭叔儀(チョングスギ)の妃たちと成宗の母である仁粹大妃(インステビ)が手を結んで尹氏の排斥をしようとしたことも原因の一つとなっていた。
自身の母が宮廷を追われ悲惨な死を遂げたことを知った燕山君は母を死に至らしめた成宗の妃である厳叔儀、鄭叔儀とその子である安陽君(アニャングン)、鳳安君(ポングアングン)を殺してしまう。更に燕山君の蛮行はこれで留まることはなく、祖母である仁粹大妃に対しても実母の廃位と賜死を理由に再三にわたり責め続けた。挙げ句に仁粹大妃は燕山君から受けた暴力が原因となり、その後暫らくしてこの世を去ることとなった。燕山君の横暴は祖母の死によっても終わることはなく、母の死に賛成したとの理由で韓明(ハンミョングフェ)など既に死んでいる者たちの墓を掘り起こさせた上で、改めて死体の首を刎ねさせる(剖棺斬死)ことを命じた。この一連の事件を甲子士禍という。こうした燕山君の蛮行を誹謗し社会に知らせようとハングルで書かれた立て札が至る所に立つ様になった。すると燕山君は諺文虐待にまで及び、庶民たちにハングルを学ばせまいと諺文口訣(ハングルの教書)を焼き払わせた。


中宗反正(1506年)

その後も燕山君の行いは留まるところを知らず、高麗時代からの国定の教育機関である成均館を遊侠場と決めつけて、成均館の司諌院(王に対して諫言する機関)の機能を取り上げ、同様に高麗時代からの古刹である圓覚寺で伎女を養成させるなどの蛮行を繰り返した。また、採紅使や採青使を全国に派遣して美女たちを集めさせ、更には自身の従兄弟となる、叔父・斎安大君(チェアンデグン=成宗の従弟)の娘を妃として後宮に入れるなど、蛮行は留まるところがなかった。この妃が張禄水(チャングノクス)であるが彼女は燕山君より年上であり、最初に二人が会った時は既に夫のある身であったが、その美貌が燕山君の目に止まり後宮に迎えられたのである。張禄水は国事にも口を出し、国の財政窮乏を招くなど燕山君の失政の一因を作った。こうした繰り返しの蛮行に民心は燕山君から離れていく。引き続く蛮行に成希顔(ソングヒアン)・朴元宗(パクウォンジョング)等が謀議の後1506年、燕山君を廃位し燕山君の義弟にあたる晉城大君(ジンソングデグン)を王に推戴し、中宗(チュングジョング=在位期間1506〜1544年)となる。これを中宗反正と言う。


己卯士禍(1519年)

燕山君の廃位後に即位した中宗は政治改革の為に新しい気風を創造しようと1515年に士林派(サリムパ)の趙光祖(チョグァングジョ)を起用し彼が主張する道学政治を採用した。趙光祖は儒学に依拠した従来の制度を改めようと、それまで高官の4分の3を占めていた勲旧派(フングパ)高官を次々と罷免した。これに対抗して勲旧派は趙光祖一派に対し着々と謀略を練っていく。
次第に中宗も趙光祖の行き過ぎた言動に嫌気を感じるようになるが、この機に乗じようと勲旧派は洪景舟(ホングキョンジュ)の娘の熙嬪(ヒビン)が中宗に仕えていることを利用して趙光祖を落し入れ無き者にしようと計画を立てる。熙嬪は趙光祖が功臣達を罷免させ王に成ろうとしているとの噂を撒き散らし、勲旧派は木の葉に〈走肖為王〉(=趙光祖が王に成ろうとしている)の文字を書いて虫に付けて撒き散らした後に、何者かの仕業であるかの様にこれを王に見せたのだった。中宗をこの衝撃から立ち直らせまいと洪景舟、沈貞(シムジョング)、南袞(ナムゴン)等は続けざまに趙光祖を陥れる為の様々な謀略を実行していった。こうした企てをすべて事実と受け取った中宗はついに趙光祖一派を獄につないでしまう。洪景舟や南袞などは趙光祖一派が生かしておくと、後々に都合の悪いことが起きるとの思いから直ちに処刑してしまおうとした。
こうした状況を見守っていた領議政の鄭光弼(チョンググァングピル)と兵曹判書の李長坤(イジャングゴン)などが涙を流して、過度の罰を与えないように懇願するが、かえって同様に獄につながれることとなる。その後、趙光祖は配流となった上で死薬を賜り、他の者たちも配流となったり罷免されたりした。この一連の出来事を己卯士禍(キミョサファ=1519年)と言い、後の世の人々はこの時死んだ者達を己卯明賢(キミョミョングヒョン)と呼んだ。趙光祖一派は勿論、領議政まで追い出した勲旧派が全ての勢力を掌握して国は安定を取り戻したかに思えたが、間もなく再び混迷を始める。
卑賤な家の出身である宋祀連(ソングサリョン)が勲旧派の沈貞に取り入って官職に就くと自身の出世の為に1521年(中宗16)、自分の妻の甥と共謀して安処謙(アンチョギョム)、權(クォンジョン)等が勲旧派の大物である南袞らの大臣を失脚させようと企てていると誣告する辛巳誣獄(シンサムオク)を起こしたりもした。


灼鼠の変(1527年)

一方、己卯士禍の際に流罪となった後に再起用された金安老(キムアンノ)は、自身の息子が中宗の長女の孝恵公主(ヒョヘコンジュ)と結婚すると権力を乱用する様になるが、南袞、李(イハング)等の弾劾で1524年に罷免され再び流配生活をすることとなる。
流配生活をしながらも金安老は沈貞、柳子光等を排除する機会を狙って陰謀を謀り灼鼠(チャクソ)の変を起こす。灼鼠の変とは金安老の指示を受けた彼の息子で中宗の婿の金嬉(キムヒ)が起こしたもので1527年(中宗22)2月25日、東宮(皇太子)を呪詛しようと誕生日にネズミの足と尻尾を切り、目・耳と口を火で焼きつぶして東宮殿の庭の銀杏の木に吊るした事件を言う。この事件の犯人として中宗の寵愛を受けていた敬嬪朴氏(キョウングビンパクシ)に疑いがかかる。王の寵愛を良い事に自分の生んだ福城君(ボクソンググン)を皇太子にしようと東宮を呪詛したとするものだった。結局、敬嬪朴氏と福城君は平民に落とされて流罪となった後に賜死する。またこの時、右議政の職に在った沈貞も敬嬪朴氏と内通した罪で賜死する。これに伴い金安老は1531年に罪が許され復職して再び暴政を始めることとなる。
金安老は1534年に右議政となりその翌年には左議政となるが、これは王族や公卿を問わず、自らの政敵と見るや無条件に排斥・殺害するという専横的暴政に因ってもたらされたものであった。
更に、金安老は文定王后(ムンジョングワンフ)の廃位を画策するが中宗の密命を受けた尹安仁(ユンアンイン)と梁淵(ヤングヨン)によって逮捕され配流の後に賜死する。
こうして引き続いて起きた国内の混乱の合い間にも、1510年には三浦倭乱(サムポウェラン)、1522年には東来鹽場(トングネヨンジャング)の倭変、1524年には野人が侵入し、更にその翌年には再び倭寇が侵入するなど慶尚道海岸部一帯を中心に大きな被害を受ける事件も起きた。
中宗は初期には庶民が昔から信じていた迷信を打破する為に昭格署(ソギョクソ)を廃止し、庶民たちが儒教的生活に馴染ませることに努めた。また、鋳字都監を設置して大量の活字を作り印刷技術の発展にも尽くし、多方面にわたる多くの書籍を刊行し、歴代の実録を謄写して史庫に保管させるなどの功績を残した。


乙巳士禍(1545年)

中宗は3人の王妃を迎えたが、最初の王妃の端敬王妃(タンギョングワングビ)は父である慎守勤(シンスグン)の失脚の際に廃位され、2番目の王妃となった章敬王妃は孝恵公主(ヒョヘコングジュ)と仁宗(インジョング=在位期間1544〜1545年)を生むが、産後に病を得て亡くなり、3番目の王妃は明宗(ミョングジョング=在位期間1545〜1567年)を生んだ文定王妃である。
中宗の後を仁宗が継ぐと亡き母の章敬王妃の兄である尹任(ユンイム)を中心に朝廷は士林派が占めることとなった。しかし、仁宗が即位して8カ月目に病によりこの世を去ってしまうと、幼い12歳の明宗が即位して実母の文定王后が御簾政治を行うこととなり、文定王后の弟である尹元衡(ユンウォンヒョング)が力を得ることとなる。二つの勢力の登場で朝廷内に争いの無い日はなく、尹任派を大尹(デェユン)、尹元衡派を小尹(ソユン)と言って区別した。結局両者の争いは小尹が尹任を始めとする大尹派を反逆罪に落とし入れて流罪とした後に殺してしまう。また、成宗の3男で桂城君の養子の桂林君が大尹派に通じていたとの無実の罪で殺される。この事件が乙巳士禍(ウルササファ)であり、このことで尹元衡は政権を手中に収める事となった。外戚たちが朝廷を思いのままにしようとすると、明宗はこうした動きをけん制しようと李(イヤング)を登用する。しかし、その李もまた作党に走り政治は益々混乱し党争が収まる事はなかった。

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