韓国略史72
「韓国5千年の歴史」とよく言われます。ここでは韓国の檀君以来の歴史を年代に沿って72編に構成して連載いたします。韓国語学習の上で歴史を知ることが、ある時には助けなり、またある時には知識の幅を広げるきっかけになる場合が多くあります。このイージー文庫で紹介します『韓国略史72』は韓国語学習者の皆さんに韓国語学習と併せて、韓国5千年の歴史を学んで頂く目的で掲載致します。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『韓国史略72』をお楽しみください。
 45.俄館播遷と大韓帝国の宣布
俄館播遷(1896年)

日本の露骨な内政干渉に嫌気を感じた高宗と閔妃が親日派を除外してロシアに近付こうとする気配を感じた日本公使の三浦梧楼は極めて強硬な手段を取る。日本から食い扶持を求めて来ていた浪人たちを引き連れ宮殿に乱入して閔妃を殺害してしまうのだった。僅か一夜にして国母(王妃)を失った朝鮮の人々の落胆は大きく、排日感情は頂点に達し全国各地で日本と戦おうとする義兵が立ち上がった。朝鮮社会に混乱の気配を感じたロシア公使のウェーベルは公使館を保護する目的で百人の水兵を率いてソウルに入ると、高宗はこの機に乗じてロシア軍隊を自身の親衛隊に任命する。高宗がロシアと親密になるとすかさず朝廷では、李完用(イワニョング)・李範晋(イボムジン)などの親露派が台頭を始める。李完用等は高宗を親ロシア派にする絶好の機会を得たと考え、ロシア公使ウェーベルと示し合せて陰謀を企て高宗が寵愛していた厳尚宮(ウムサンググン)に接近していく。高宗の厳尚宮への寵愛は閔妃の生前からであったが閔妃が暗殺された後は殆んど皇后と変わらない様な威勢を放っていた。そこで李範晋は厳尚宮に4万両の金を贈って高宗をロシア公館に迎える手助けを依頼する。

一方の高宗は閔妃の悲惨な最後を目にして不安を感じていた所に、親ロシア派の側近たちから厳尚宮を通してロシア公館入りを進められると、容易にこれを受け容れ皇太子と共にロシア公館に入った。高宗がロシア公館に入ると、ロシア側は高宗と皇太子の二人のみを受け容れ他のものたちは景福宮に送り返し、高宗と皇太子はロシアに監禁された状態となる。誰も高宗に思い通りに会う事が出来ず、高宗に会いたい時はロシア公使の承認が必要となった。唯一、通訳官であった金鴻陸(キムホングユク)だけが自由に面会を許されたのだった。この事態を俄館播遷(アグァンパンチョン)という。この事態により僅か一日で政権は親日派から親露派へと移った。金鴻陸とウェーベルが朝廷を動かし、財政顧問であったアレキセーエフは実質的な朝鮮の財政長官と変わりなかった。この結果、朝廷には親日派がいなくなり親露派が大臣となった。この事態に親日派たちの中では或る者は自身の身を守る為に日本に亡命し、また或る者は郎徒等に襲われ殺されてしまうこととなった。

ロシアは着実に朝鮮に対する内政干渉の準備を進め、その手始めに朝廷内の各部門の顧問にロシア人を任命していく。朝鮮にロシアの銀行とロシア語学校が設立されロシア製の武器が輸入された。するとアレキセーエフは財政顧問の立場を乱用して、朝鮮の様々な利権を各国に紹介料を取って仲介する様になる。例えば、京仁(京城〜仁川)鉄道の敷設権はアメリカ人のモアーズに与えられ、京義(京城〜義州)線はフランス人のグリルに、咸鏡道の鉱業権はロシア人のニシチェンスキに、鴨緑江流域の伐採権はロシア人のフリーネルに与えられるなどした。しかしこうした彼の振る舞いを朝鮮の人々はただ黙って見過ごす訳ではなかった。


大韓帝国宣布(1897年)

この様な状況の中で甲申政変(カプシンジョングビョン)の主導者の一人であった徐載弼(ソジェピル)がアメリカから12年ぶりに帰国する。徐載弼は12歳で科挙に合格した秀才で、合格後は日本に派遣され東京陸軍幼年学校に留学卒業して調練局師官長となった人材であった。甲申政変が失敗すると日本を経由してアメリカに渡りワシントン大学で医学を学んだ。アメリカで医師をしながらも常に朝鮮に強い関心を持ち続けた徐載弼は、閔妃派の没落とその後の朝鮮の混乱を耳にすると1896年に帰国して“独立新聞”を発刊する。同時に李承晩(イスングマン)・李商在(イサングジェ)・尹致昊(ユンチホ)等と独立協会を結成したが、当初はこれに李完用・安駒寿(アンギョングス)などの当時の政府要人たちも参加していた。しかし、“独立新聞”が民主・民権思想を喚起したことで民衆の政府に対する批判と避難が高まると李完用を始めとする政府の要人たちは脱会して行ったのだった。独立協会は、李商在・李承晩・などの近代思想と主体的改革思想をもった知識人たちが指導部を形成し、列強の侵奪と朝廷の守旧派に不満を持った都市の市民層が主要な構成員となり、学生、労働者、子女に至るまで広範囲な人々の支持を受けた。

独立協会が最初に行った事業としては迎恩門の取り壊しを上げることが出来る。迎恩門とは朝鮮が中国からの使臣を出迎え歓迎する意味で建てられた門であった。朝鮮にとって非常に屈辱的な意味を持つ迎恩門を取り壊して、その跡地に独立門を建てることとし費用は広く国民から資金を募った。また、独立協会はロシア公館で監禁状態となっている高宗と皇太子を宮殿に戻す為に国王還宮要求と利権譲渡反対運動を繰り広げ多くの人々から支持を受ける。独立協会が人々の後押しを受けて還宮運動を続けると、ロシア公使は仕方なく高宗を慶運宮(徳寿宮)に送り高宗は一年ぶりとなる1897年2月20日に還宮を果たした。この年の10月、高宗は独立協会らの進言を受け自主国家を標榜して国号を大韓帝国とし、年号を光武、王を皇帝と称すこととした。これにより大韓帝国は独立国家として進むかに思われたが、やはり外勢はこれをそのまま放っては置かなかった。


毒茶事件

日清戦争が終わると朝鮮から清の勢力は消えることなったが、これと入れ替わる様にロシアの勢力が入り込んで来る。朝鮮は今度は日本とロシアの間での利権争いの草刈り場と化して行く。俄館播遷により朝鮮への影響力が弱まった日本は何としても挽回をしなければならない立場であった。一方、事実上の朝鮮の覇権を確保した判断したロシアはその関心を中国へと向けていくのだった。こうした状況の中で独茶事件が起こるが、この事件を機にロシアは朝鮮での勢力を次第に失うこととなる。
1898年(光武2)8月18日、高宗の誕生日である萬寿節の宴会が慶運宮で開かれる。宴会の席上でコーヒーが出されると高宗はその匂いが常と違う事に気付いて飲まなかったが、気付かずに飲んだ皇太子(後の純宗)は突然倒れ込んでしまう。この原因がコーヒーに含まれたアヘンの毒素に因るものと分かると、この時の料理人たちと宴会を指揮した金鴻陸が逮捕される。その日の内に料理人たちは誰にも知られないまま殺され、金鴻陸は陵遲處斬(大罪人に科した処刑方法で頭、胴体、手足を切断する極刑)となった。しかし事件の真相は明らかにされないまま迷宮入りする。一方、日本は日清戦争後にロシアが主導した三国干渉に不満が募る中で朝鮮でも親露政策が優勢となったことでロシアへの対抗意識を更に強くすることとなる。この後、ロシアと日本は朝鮮に関する妥協を模索しようと1896年に2回、1898年に1回の全3回の協議を行うと両国は朝鮮の内政に直接関与しないこと、ロシアは韓・日両国間の商工業関係の発展を妨害しないことなどで合意する。しかし両国関係は、ロシアの中国への関心が強まることで日露戦争へと進んで行くこととなる。

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